(昭和28年)
(昭和32年)
戦後、お金に困っている人や働く人たちのために「いつでも、どこでも、誰でも安心して受けられるより良い医療・介護・福祉を」との趣旨で全国各地に作られた民主的な病院・診療所が集まって、全日本民主医療機関連合会(略称:全日本民医連)が結成されました。
民医連の事業所の経営主体、運営主体として最も多く選ばれたのが医療生活協同組合でした。主人公は組合員であり、「出資」「運営」「利用」の三方面から参加でき、個人経営でなく、集団所有によってより民主的な運営が保障されるからです。1957年(昭和32年)には、それらの医療生協が集まって、日生協医療部会が結成されました。
県民の期待背負って意気高く出発
(昭和50年)
1970年代は、全国に革新自治体が次々と誕生した革新運動高揚の時代でもありました。民医連加盟の民主的な病院・診療所は全国に展開する中、1970年代に入っても、栃木など9県が民医連の空白県として残されていました。
その中で、栃木でも民主診療所を作ろうと言う動きが広がり、まず県内の革新的な人々や民主団体、知識人の代表が集まって準備会が作られました。約8ヶ月間の準備期間を経て1975年(昭和50年)6月22日、栃木保健医療生活協同組合の創立総会が行なわれ、(初代理事長小田芳徳氏)、10月31日から宇都宮市宝木団地の一角で宇都宮協立診療所がスタートしました。
診療所は当初より入院設備(19床)を備えた重装備診療所として開始しました。斉藤三朗所長を先頭に進められた献身的な医療活動は団地周辺の人々にただちに歓迎されるものとなり、住民本位の予防と健康を守る活動に支持と期待が広がりました。
地域への定着と発展めざす中で大きな挫折と困難に直面
(昭和53年)
(昭和54年)
(昭和55年)
「長期計画」および「病院化計画」発表
(昭和56年)
1980年(昭和55年)の創立5周年時には盛大な記念行事がとりくまれました。また群馬から栃木への移籍を表明された斉藤所長のもとに「長期計画案」および「病院化計画」が練られました。その内容は十年後の膨大な目標をかかげながら、肝心の経営計画や医師確保の条件は不備というずさんな計画に終わってしまいました。しかも、創立以来の経営の赤字体質は払拭できないままでいました。
そして81年5月、初代所長の突然の退職とその後の医師体制空白は、深刻な経営危機とも相まって医療生協の存亡が問われる重大な試練の始まりとなりました。
倒産の危機の中、医療生協の灯を守り抜く
当時「栃木から民診の灯を消すな!」と言う合言葉が生まれ、関東各県の民医連医師が次々と支援に来られ、その数はのべ50人近くとなりました。開業医からの支援もありました。とくに西那須野町の竹内勝次先生には二代目所長を引き受けていただき、75歳の高齢をおして診療に当たられたことは忘れられないことです。
しかし累積赤字額は1億円以上となり、当面の資金ぐりは困難をきわめて予断を許さない状況となっていました。その中でついに1982年(昭和57年)民医連から青年医師の長期派遣が決まり、前半は宮城の天谷静雄医師、後半は群馬の桜井康喜医師が担当されて青年医師らしい奮闘と諸活動の前進が築かれました。第7回総代会で選出された理事会は斉藤洋三新理事長を先頭にこれらの活動をリードしました。
安定した医師体制のもと本格的な再建と活動の前進きずく
(昭和57年)
(昭和60年)
創立10周年記念祝賀会
(昭和62年)
第1回夏まつり
「障害者列車ひまわり号」
第3回全国医療生協ゲートボール大会
1983年(昭和58年)からは全日本民医連の要請を受けて本県出身の天谷医師が再び所長に着任し、役職員一丸となった奮闘で経営黒字化と経営再建の実を上げられました。
医療制度改悪の動きはまず1983年の老人医療有料化、そして84年の健保改悪となって現れ、これに対抗した医療運動が展開されました。また1988年(昭和63年)以来、県内で旗揚げした高齢者運動の中心となりました。それまで中断していた健康まつりに代わるものとして「新春のつどい」や「夏まつり」が大きな成功をおさめました。医療生協ゲートボール大会もこの時から二十年におよび開催されました。
88年6月には、医療費削減のための増床規制を狙いとした県保健医療計画が決定公示され、県央医療圏はベッド過剰地域とされてしまいます。この1988年を運命の分かれ目として栃木は病院化のバスに乗り遅れてしまいます。経営再建にエネルギーが割かれたこの時期、組合員活動の方はどちらかと言うと低調に終わってしまいました。その中で医療生協安蘇支部が県内のトップを切って旗揚げし、活発な支部活動を展開し始めました。
医師複数化による医療活動と組合員活動と両面での飛躍発展
(平成1年)
(平成2年)
在宅患者さんのお花見会
1990年(平成2年)、関口真紀医師を迎えた歴史的な医師複数化で協立診療所の医療活動は量、質ともに発展が見られました。「在宅患者さんのお花見会」開催につづく組合員のボランティア活動発展や、「診療所利用委員会」開催など、医療生協らしさの総合的追求も進みました。
1992年(平成4年)からは医師医学生対策強化のための専任者が配置されて全国行脚を開始しました。94年には組合員数の6千人突破や念願の累積赤字解消と1億円近い出資金で自己資本比率も50%を超えるなどの組織的経営的前進が生まれました。95年は医療生協の20周年記念式典と祝賀会が開催されるとともに、翌年の訪問看護ステーション開設に始まる新たな事業展開に注目と期待が広がりました。
この時期の特徴は、全国的な医療生協の支部化の方針に従い、支部化が進んだことにあります。88年の安蘇支部につづき、続々と支部が誕生。その中で支部が地域で組合員をまとめて自覚的に活動する役割や、自治体への要求運動も含めた「まちづくり」に貢献する役割も強調されました。
長期計画により目に見える発展に乗り出す
(平成8年)
訪問看護にて
(平成9年)
新築移転予定地で健康まつり
(平成10年)
(平成11年)
(平成12年)
1996年(平成8年)9月に開かれた臨時総代会で正式の長期計画が決定され、「県都に第二診、県南に第三診と診療所展開」や「全県で1万2千世帯への組織建設」などがよびかけられました。97年3月には第1回の支部・班活動交流集会が開かれ、「明るいまちづくり」に貢献する医療生協の役割認識が広がると言う前進がありました。
協立診療所の新築移転の課題に備えようと近隣のスーパー跡地を買い取り、10月にはそこで15年ぶりに健康まつりが開催されました。2000年4月の介護保険実施前夜の在宅事業分野の発展は目覚ましく、96年虹、98年ふたばと二つの訪問看護ステーションを開設しました。
1998年(平成10年)には宇都宮市南部地域に生協ふたば診療所がオープンしました。これを機に史上最高の仲間ふやしで組合員8千人を突破することができました。また医学生対策十年間の苦労が実を結び、この時までに4人の常勤医師団ができました。
ふたば診療所に併設の在宅介護支援センターは地域の人々との共同で「まちづくり」の拠点となることが期待されました。また支援センターの中に将来、居宅介護支援やヘルパーステーションとなる事業部門が切り開かれました。
新築移転成功をバネに事業と運動の拡大発展へ
(平成15年)
診療所のエントランスにある陶板画には、地域に根づき発展するようにとの願いが込められています。
手紙を読む
(平成17年)
(平成18年)
2001年(平成13年)開かれた第26回総代会では、「宇都宮協立診療所の新築移転」や「高齢社会に見合った総合的な事業展開と施設作り」「全県的な視野に立った組織と運動、施設のネットワーク作り」を主な柱とする長期構想が決定されました。11月開催の臨時総代会で協立診療所の新築移転を含む総額4億円の建設計画が承認されますが、金融情勢悪化などで計画の着手は若干遅れ、その間により組合員に依拠した建設資金確保と増資運動の超過達成が目指されます。協立診療所の地元では毎月、力強い地域総訪問と対話活動がとりくまれました。
2003年(平成15年)11月、新宇都宮協立診療所がオープンし、最新の設備を備えた3階建てのデラックスな建物に生まれ変わりました。旧施設は改修工事の上、2004年(平成16年)3月オープンで介護サービスセンター虹の施設として生まれ変わることになりました。05年月間では遂に1万人組合員と3億円出資金の峰に到達することができました。
5人の常勤医師団と栃木民医連の確立
(平成20年)
小泉改革の政治は社会保障・医療の切捨てで各地に深刻な「医療崩壊」を生み出しました。医療生協も経営困難打開のため、「在宅療養支援診療所」への応募や院外処方化でこれに対応するようになります。協立診は2006年(平成18年)5月に開店した「レインボー薬局宝木店」との連携で院外処方を行なうことになり、これに先立つ半年前に東京民医連の援助で調剤薬局法人の株式会社栃木保健協働が誕生しています。
ところで全日本民医連は県連の連合体であり、その県に3事業所以上あれば県連を結成できます。遅れている社保、経営、後継者確保の課題を進める上でも県連結成は必須でした。栃木はここ十年、東京民医連に所属していましたが、直接にはこの薬局法人設立が引き金となって県連独立をめざすことになります。こうして2008年(平成20年)7月には全国46番目の県連としての「栃木民医連」の結成総会が行なわれました。
2009年(平成21年)には2010年代を展望して医療生協の事業と運動の発展をめざす長期構想が発表されました。その特徴は、医療事業においてそれまで掲げ続けていたセンター病院建設の旗を降ろし、診療所群としての展開、それも県都宇都宮中心での展開を掲げたことでした。
2010年(平成22年)7月には全国115の生協が大同団結して医療福祉生協連の結成が行なわれ、栃木もその一員として活動することになりました。
震災後のせめぎあいの情勢の中で「いのちの平等」の実践
(平成22年)
2010年(平成22年)からは武井医師の赴任で安定した5人の常勤医体制となります。その後は外来医療、とくに在宅医療の伸びが目立ち、介護事業もがんばって実績を大きく伸ばすことができました。
2010年2月に開催の民医連全国総会では「無差別平等の医療と福祉」をかかげた新綱領が決定され、具体的に「いのちの平等」の実践としての無料低額診療事業にエントリーが呼びかけられました。この中で栃木でも2012年(平成24年)8月から無料低額診療事業を開始することができました。
2011年(平成23年)の3月11日、東日本一体を襲った大地震と津波、原発事故の被害は甚大なものとなり、栃木からも被災地支援と、同時期に群馬の利根中央病院への医師支援も行なわれました。
2009年に誕生した民主党政権は震災と原発対応で右往左往し財政難を理由に「税と社会保障の一体改革」方針を打ち出しました。
2012年春は診療報酬と介護報酬の同時改定があり、これにうまく対応の結果、医療生協の経営は大きく前進して累積赤字解消となりました。
88年の安蘇支部を先頭に全県に支部づくりと健康地域づくりの実践も深まりました。レインボー健康体操など健康づくりや助け合い事業も生き生き楽しく広がり、その中で組合員ふやしも前進、と言うすぐれた活動経験も生まれています。
いま医療福祉生協の出番の時
ここで栃木の歴史を組合員活動の視点から概観するならば、主に以下の3つの活動において地域社会への貢献が目指され、組合員活動がより豊かに発展してきた歴史であったと言うことができます。
日本が超高齢化社会を迎え、無縁社会が広がり、地域の保健力も低下する中で、人々の結びつきと協同を広げる活動と事業が今ほど求められている時はありません。
「地域包括ケア」が叫ばれ、保健、医療、介護の総合的な活動推進の立場で事業所と組合員が一体となった活動も期待されているおり、私たちのとりくみ如何では小さな診療所でも大きな役割を果たせるのではないかと言う新たな期待も生まれてきています。
2014年(平成26年)、栃木保健医療生協はその理念を決定して、私たちの健康観に始まり、健康づくり、まちづくりにつながる私たちの活動の意義を大きく普及しよう、と呼びかけました。2015年(平成27年)には2020年を展望する中長期計画を立てて、事業と運動の拡大発展をよびかけています。今こそ、私たちが地域で何ができるかを考え、大いに仲間をふやし、人びととの協同でより頼りがいのある医療生協へと発展させようではありませんか。
(平成27年)
翌年8月に開催された40周年祝賀会での小塙定一さん(元副理事長)のスピーチ。
スピーチを読む
「地域活動部」のページで詳細をご覧いただけます。
元副理事長 久賀伊二
(栃木保健医療生活協同組合 宇都宮中央支部)
協立診療所の入口の壁に大きな益子焼のモニュメント(陶板画)がある。医療生協のシンボルの虹と平和の鳩が数羽、そして図案化された宝の実がちりばめられてある。
宝の実とは、地本宝木町は学名木の《木の手柏(このてがしわ)》で昔の宝に似た小さな青い実がなる木が自生していたことから命名されたと伝われ協立診療所が地元に根着き発展するとの願いから壁画に入れようとしたのです。
1997年「明るい町づくり」に貢献し、老朽化が目立った協立診療所の移転新築を目ざして近隣のスーパーの跡地を買取りました。
建設の前年には組合員と職員による地域総行動を1年間で約4000軒を訪問2300軒と対話、組合員加入、増資が進みました。
そしていよいよ2003年に建設がはじまりました。私は当時理事会の建設委員会にたづさわり、提案された陶板画について藤原工房(益子)を副理長だった小塙定一氏(真岡市在住)と数回訪れ、予算や図案について話し合いました。そして壁画の図案については3案をだしていただき所内の職員と看ゴ師などの討議によって現在の図案になったのです。
元副理事長 小塙定一
ご紹介をいただきました、小塙です。
医療生協創立40周年おめでとうございます。関口理事長をはじめ、創立40周年を支え今日の発展を作り上げた役職員の皆さんのご苦労に感謝し心から敬意を表します。
又医療生協発展のため、お力をいただいたすべての組合員の皆さんに心から感謝を申し上げたいと思います。私も医療生協創立以来三十年間理事会の末席をけがしてきた一人として、せんえつですが、一言ご挨拶を申し上げさせていただきます。
三十年の歴史を振り返ってみると、山あり谷あり文字通り喜怒哀楽の歴史だったと思います。先進的な組合員のみなさんと、約二年がかりで医療生協を立ち上げ、協立診療所建設を成功させた時の喜びと感激は万感胸にせまるものでした。初代所長に群馬から斉藤三郎先生を迎え、順調に滑り出したことは言うまでもありません。ところがその喜びもつかの間、開院五年目にして、初代所長の斉藤医師が莫大な負債を抱えたまま突然退職、理事会をはじめ、職員、組合員の皆さんが途方にくれました。私自身も夜も眠れない日々が続きました。理事会は早速この現状を全国民医連に報告しました。民医連本部は栃木の訴えをすぐ取り上げてくれ、「栃木から民診の灯を消すな」と全国の民医連に呼びかけると同時に具体的な支援計画まで提案してくれました。
その結果本日出席をいただいている、群馬民医連の櫻井先生をはじめ、東京、埼玉、茨城、福島、遠くは新潟などから多くの先生が支援にかけつけ、休むことなく診療を続けてくれました。この時ほど民医連の偉大さを痛感したことはありません。もちろん県内の先生方も立ち上がり、故人になられた、松永たかし先生をはじめ、西那須野の竹内先生などは老骨にムチ打ち臨時の所長を引き受け、数か月に渡って連日診療にあたっていただきました。こうして常勤医師のいない診療所でありましたが、県民の健康を守る砦として再建の道に踏み出すことができました。
またこの間の職員の皆さんの涙ぐましい奮闘を忘れることはできません、ボーナス返上で診療所を守っていただきました、とりわけ初代婦長として、職員の団結の要となって頑張っていただいた斉藤千恵さんには心から敬意を表したいと思います。
またここで紹介しておかなければならないのは、栃木の問題に真剣に立ち向かっていただいた、当時の民医連会長、高橋先生のことです。先生は度々栃木に足を運んでいただきました。その際、栃木に常勤医師が居ないのを聞いた先生は、早速「うちの病院に宇都宮出身の先生がいるから紹介しよう」と言って、天谷先生を紹介してくれました。今は故人になられた、当時の専務理事、武井修氏と宮城の坂病院に天谷先生をたずね所長就任の要請に訪問したことを昨日のことのように覚えています。このあと天谷先生が栃木民診再建を担って着任して以来、先生を中心に、総代会が決めた再建計画を役職員一丸となって、涙ぐましい奮闘が続きました。「休日・夜間でも診てくれる」「いざというときには入院もできる」と一日一日組合員の信頼が深まり、以来今日の医療生協の土台が築かれたと思います。
最後になりますが、栃木の医療生協の歴史をふりかえり、私は二つの教訓を学ぶことができました。その一つは、組合員を主人公にした運営に徹し、患者の尊厳を守り「報いられることを期待しない愛情と献身」だと思います。もう一つは全国民医連のたたかいに学びましたが組織の重さでした。
長くなりましたが、最後に組合員の長寿を願い、栃木保健医療生協のますますの発展を記念し挨拶と致します。
ありがとうございました。